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未知のものを名づけるということは、
それを既知のものにして、
対応出来るものに変えてしまうということらしいのです。
つまり、例えば、
猫というものは
「猫」と名づけてしまえばただの猫であり、
恋という気持ちも
「恋」と名づけてしまえばただの恋だというのです。
確かに、名前がない、未知であるということは、
それだけで、なんと恐ろしいことでしょう。
人はこうやって、恐ろしいものを取り除いてきたのでしょうか。
名前をつける、ということは、
言ってみれば、理解するということなのであります。
女の子が怖いというのはどうでしょう。
それは、女の子をよく知らないからではないでしょうか。
男の子が怖いというのも、
それは男の子をよく知らないからではないでしょうか。
では、子供が怖いというのはどうでしょう。
もし、産まれてきた自分の子供に、
名前をつけてはいけないとしたら。
それはどんなに恐ろしいことでしょうか?
けれど、「自分」がとても暖かい母親で、
甘やかしたり、ただ心配しているというのではなくて、
いつもいつも見守って、なぜ子供が泣いているのかを「理解」して、
それを包んですべて受けとめてくれるようであれば、
名前がないことくらい一体何になるでしょう。
考えること、つまり、理解から逃げて
つい誤った方向へ走ってしまう人もいるようですが、
それは間違ったことではない、と思います。
なぜなら、怖かったのでしょうから。
逃げてはいけません、と、私は思うのです。
ただ、それこそが難しいことなのでしょうけど。