私は「かわいそう」という言葉が、
苦手なのでございます。
そして、「かわいそう」に限らず、
「よかったね」や「すごいね」も時に、
苦手な言葉となりえるのです。
かわいそうってなんでしょう。
親がいなかったら「かわいそう」?
いじめられたら「かわいそう」?
それって一体何かしらん。
「かわいそう」なシチュエーションに当てはめて、
それを「かわいそうねえ」と口にだす。
それって違うのではないかしらん。
知ったふうな口をききますけれど、
親がいなくったって、かわいそうとは限りません。
いじめられていたとして、かわいそうとは違いません?
運が悪かった、ということでもないのでしょう。
人間の数は、星の数ほどございます。
人間の感情も、きっと星の数ほどございます。
かわいそうでないことも、
星の数ほどございましょう。
それらをまとめてかわいそうと言うのは、
機械のようでございます。
せっかく人間なのですから。
状況を聞くだけで同情するのも、
おかしいことではございません?
例えば影響力のある映画をつくって、
世界を平和にしようという方がいたとします。
その方はすごく努力して、
素晴らしい映画をつくったとします。
その映画を見て、
「すごいね」と言う人は何人いるのでしょう。
では、自分も世界を平和にしようと思う人は、
一体何人いるでしょう?
素晴らしい芸術は多くの人にほめてもらえますが、
考えを変えさせることはなかなか出来ません。
たとえアカデミー賞をもらっても、
人々が「すごかったねー」と言って、
このシーンのCGがどうだとか、
あの場面で俳優さんの演技がどうだとかを言い合いながら、
映画館から出てくるだけなのです。
人はなぜ、「かわいそう」と、
「よかったね」と、「すごいね」と、言うのでしょう。
何を考えて言うのでしょう。
何も考えていないのではありません?
私はそれを考えて、よくわからなくなるのです。
もしも「かわいそう」な状況で、
「かわいそうでない」のだということをを認めることができたなら、
きっと、星の数ほどの感情を味わえるのではないかしらん。
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